毎年1月17日には、神戸市役所横の東遊園地で市民追悼が行われるこの震災の直接の原因となった地震を、気象庁は「平成7年(1995年)兵庫県南部地震(The South Hyogo prefecture Earthquake in 1995)」と命名した。淡路島及び阪神間(神戸市・芦屋市・西宮市・宝塚市・尼崎市・伊丹市・大阪府豊中市など)を中心に大きな被害をもたらし、特に神戸市中心部は壊滅状態になった。地震による揺れは、阪神及び淡路の一部で震度7の揺れを観測したほか東は東京、西は鹿児島・長崎までの広い範囲で観測され、第二次世界大戦後国内で最大の震災となった。
被害
(瞬時にして倒壊した家屋 神戸市灘区 1995年1月)死者 : 6,434名 行方不明者 : 3名 負傷者 : 43,792名
避難人数 : 30万名以上
住家被害 : 全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計約25万棟(約46万世帯)、一部損壊263,702棟
火災被害 : 住家全焼6,148棟、全焼損(非住家・住家共)合計7,483棟、罹災世帯9,017世帯
その他被害 : 道路10,069箇所、橋梁320箇所、河川430箇所、崖崩れ378箇所
被害総額 : 10兆円規模
大都市を直撃した都市型災害としては関東大震災以来の未曾有の出来事であり、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などライフラインは寸断され広範囲で全く機能しなくなった。これ以降都市型災害及び地震対策を語る上で「ライフライン」の早期の復旧、「活断層」などへの配慮、建築工法上の留意点、「仮設住宅」「罹災認定」等の行政の対策、などが注目されるようになった。
元々日本は地震大国であり、日本の大型建築物は大地震にも堪えうる構造であるとされていたが、ビルやマンション、病院、鉄道の駅舎などで広範囲にわたり倒壊、全半壊が多くみられた。
特に火災の被害が甚大であった神戸市長田区では、地震直後の火災に伴う火災旋風が確認されたが、消火活動が間に合わず、被害をより大きくする結果となった。西宮市においても、住宅街に面した山腹の斜面において大規模な地滑りが起こり、多くの人々が犠牲になった。
建造物・交通
阪神高速神戸線の倒壊は、この震災による甚大な被害を象徴するものとして世界中の新聞の一面に大きく取り上げられた。サンフランシスコ地震、ロサンゼルス地震などで倒壊した高速道路においても、日本では安全といわれていたが、それらは縦揺れに弱い構造であり、教訓として生かされていなかったのが大きな被害へとつながった。また手抜き工事による倒壊も多くあり、さらに被害を大きくしたが、それは神戸市東灘区の深江地区で顕著であった。山陽新幹線においても同様に橋脚の倒壊が見られ、ここでも手抜き工事の痕跡が見つかっている。
一方、地下を走っている神戸高速鉄道大開駅が崩壊しその上の国道28号で陥没が発生、直後の交通規制などが迅速に行われず、国道43号線、国道2号線、山手幹線など神戸方面につながる主要幹線道路で大渋滞が発生した。震災以前は「地下鉄は地震に強い」と言われていたが、大開駅周辺は軟弱地盤であったために地震動に揺さぶられ崩壊してしまったと考えられている。
被災地区を通る鉄道路線のうち、最も南を走る阪神電鉄本線は、主に灘区内の高架区間に、特に大きな被害を受けた。これは、この高架が戦前に造られた古いものであり、十分な耐震構造でなかったことが原因の一つとして指摘されている。
特に、この区間では、数か所で道路をまたぐ鉄橋が落ちて南北の道路交通を遮断。後に、各地の橋梁において落橋防止の補強が行われるきっかけとなった。
阪神御影駅西方の留置線も崩壊。ここに留置されていた車両も横倒しとなり大破した。 さらに、高架構造である石屋川車庫が崩壊。地震発生が早朝のため、前夜から留置されていた多数の車両が崩壊に巻き込まれ損傷。41両もの車両が廃車となり、車庫自体も一度全て撤去した後に、工事を翌年までかけて再建せざるを得なかった。
また、阪急伊丹駅では震災が起こった午前5時46分に発車するはずだった電車が崩壊している映像やJR六甲道駅の崩壊の映像などこれらの映像は、阪神高速道路倒壊の映像とともに、この震災の被害を象徴するものとなった
港湾都市である神戸は、神戸港も被害を受け多くの埠頭が使用不能となった。また埋め立て地を中心に地面が軟弱化する液状化現象が見られた。このため、海からの支援等も不可能となってしまった。
当時、建設中であった明石海峡大橋は、地震による直接的な被害は無かったものの全長が1m伸びるという事態が発生した。また、大橋の位置が震源地に近かったため、その重量が地震の引き金になったとの説が流れたことがある。また橋の淡路側の山上にフランス革命200周年記念として日仏友好モニュメントが建設予定であったが休止されている。
文化・スポーツ
宝塚歌劇団の本拠地・宝塚大劇場も大きな被害を受け、およそ2ヵ月半の間公演不能の状態になった。
おりしも、安寿ミラが退団公演の真っ最中。3月に劇場は麻路さきお披露目公演・第81期生初舞台公演「国境のない地図」で復活するが、「大劇場での最後を見せてあげて」という生徒からの嘆願やファンの署名運動に支えられ、5月にさよならショーが2日間実施された。
神戸国際会館も全壊し、予定されていた公演が中止や会場を移しての公演になった。
この大震災は関西のスポーツ界にも多大な影響を出す。阪神競馬場や甲子園球場の一部が損壊、そしてこの年の「大阪国際女子マラソン」も中止を余儀無くされた。また、4月に岡山で開催予定だったF1パシフィックグランプリも10月に延期された。鈴鹿サーキットでの日本グランプリとの連続開催が緊急に実現した事によってF1グランプリの「日本シリーズ」が実現した。さらにこの年に予定されていたゆうあいピック兵庫・神戸大会も中止になった
復興支援活動
3月7日には東京、九段の日本武道館にて有志のミュージシャンによるチャリティーコンサート「MARCH OF THE MUSIC」が開催され氷室京介、布袋寅泰、鈴木雅之、大沢誉志幸、佐野元春、PRINCESS PRINCESS、米米CLUB、TUBE、森高千里等が2〜3曲ずつを交代で披露し収益は全額寄付された。上記公演に参加しなかった多くのミュージシャンも、自らのコンサートやラジオ番組で募金などの取り組みをした。また6月3日、4日の京都競馬、翌1996年7月7日の中山・阪神・札幌競馬は復興支援開催として施行され、馬券の売り上げの一部が寄付されている。
ボランティア活動
地震直後に現地で被災者支援のボランティア活動に参加した人の数は一日平均2万人超、3ヶ月間で延べ117万人とも言われ、被災地でのボランティア活動(専門ボランティア・情報ボランティアを含む)の重要度に対する一般の認識も飛躍的に高まった。そのため、この年は日本における「ボランティア元年」とも言われる。後に、内閣は1月17日を「防災とボランティアの日」と定めた。
命名
1月17日の災害発生時、メディアは「関東大震災」にちなんで「関西大震災」と呼んでいた所も有ったが、毎日新聞がはじめて「阪神大震災」の名称を使ったところ、次第に「阪神大震災」が一般的な名称として呼ばれる様になった。 気象庁は地震そのものを「平成7年(1995年)兵庫県南部地震(The South Hyogo prefecture Earthquake in 1995)」と命名。 その後、政府が、今回の災害の規模が大きい事に加えて、今後の復旧に統一的な名称が必要で有るという観点や、淡路島地区の被害も大きかったことにより、災害名を「阪神・淡路大震災」と呼称する事が2月14日に閣議口頭了解され、「阪神・淡路大震災復興の基本方針及び組織に関する法律」が制定された。この時に「阪神・淡路大震災」と呼ばれるようになる。なお明石市や淡路島の諸自治体は、被災地が阪神地域に限られる印象を与えるとして同呼称を用いていない。
防災
震災当時の状態が保存されている神戸港震災メモリアルパーク。浜手バイパスの奥に見える阪神高速神戸線も倒壊した。2004年2月撮影この大震災が、火災を含めた大惨事となった大きな理由は、被災した地域が国内の他の地域に比べて地震の発生が少なかったことがあげられる。地震の専門家の一部は、規模の小さい地震すら起こらないことでエネルギーの蓄積が起こり、万が一地震が発生した場合は規模が大きくなるものとして危険性を指摘していたが、「近畿地方は地震が少ない。仮に起こってもそんなに大きな地震は過去に起こったことがない。」といった“実体験”による認識(ただし、歴史文献を紐解けば、実際には同地方は度々巨大地震に襲われている。地震の年表参照)から、「近畿地方では大きな地震は起こらない。」とする誤解が広まっており、当時指摘そのものを信用する人間がいなかったからだとされている。また、これまで大地震は、太平洋プレートやフィリピン海プレートが日本海溝で日本の下に滑り込みそのプレートの跳ね返りにより発生するとされ、活断層のずれによる大地震の発生はあまり注目されていなかった。実際、これらのプレートの境界の近くに位置する東海地方は、大地震(東海地震・東南海地震)の発生する可能性が最も高い地域として、防災訓練、建造物の補強や砂防など徹底した対策が取られてきた。一方、近畿地方では、前述のような理由から、無警戒に近かったということは言えるであろう。
また、例えば北海道各地や東北、北陸などの雪国であれば、地震の多発地帯以外でも、「雪」という重量物が屋根の上に積み重なる前提で家屋が建てられるために、結果的に「地震」など揺れにも強い構造となることも考えられる。とはいえ、新潟県中越地震において豪雪地域の建物が少なからず倒壊・損壊したことで、耐雪構造と耐震構造とを分けて考える必要性が指摘されるようになっている。
全てではないが、その後のビルディングも含めた建築物を建造や補修する際は、そういった阪神・淡路地方の惨劇を教訓とした上で、最低限の耐震性を考慮した構造に変わっていった。また、前述の「高架になっている高速道路や一般道路、鉄道などの橋脚」の構造上の脆弱さが指摘されて、順次、行政主導のもと補強工事が施工されていった。
この地震の原因とされる活断層は全国に広く分布し、科学的に大地震を正確に予知することは現在も不可能であり、「活断層上の建造物の耐震性」「地盤の強弱」を前提とした補修、建造であっても、万一発生の際の被害予測は非常に難しい。また、「地震に起因する火災(特にもらい火)」などは、多くの火災保険では填補除外条項とされているケースが多く、採算性の問題も含め改善が進んでいない。一方、この震災を機会に地震保険への注目が集まるようになった。そういった諸問題も含め、この「大震災」は日本の災害対策上重要な位置を占め、地震の少ない地方であったとはいえ「地震国日本」がこういった人命、建造物問わず、甚大な被害を被ったこと自体が、世界中に衝撃を与えた。
以上の教訓を踏まえ、兵庫県は神戸市中央区に人と防災未来センターを建設した。なお、新潟県中越地震による新潟県への別館建設も検討中である。また、震災の記録を残すため、津名郡北淡町(現・淡路市)には兵庫県南部地震の震源となった野島断層を保存する北淡震災記念公園が、神戸市中央区のメリケンパークには崩壊したメリケン波止場を保存する神戸港震災メモリアルパークが整備された。
震災の影響
毎年1月17日、神戸市役所横の東遊園地では雪地蔵にロウソクを供え手を合わせる姿がある。被災地域の住民の間では、震災から10年を経てなお、単に「地震」と言えば阪神・淡路大震災のことを指す。
この災害によって消防・レスキューの得た経験は、緊急消防援助隊や広域緊急援助隊の制度発足と整備につながり、後の新潟県中越地震(2004年)やJR福知山線脱線事故(2005年)でも大きく貢献することとなった。また、1995年3月の地下鉄サリン事件と合わせ、自衛隊の災害援助の意味での機能が注目され、国民の自衛隊に対する好感が、震災以前と比べて大きくなった。一方で、自衛隊の本務でない災害援助においては装備や組織の問題で十全に機能し得ないとする意見も多い。上記の大渋滞によって消防・レスキューの到着が遅れ、救助活動が進まず、村山富市総理大臣(日本社会党)から出動要請を受けた自衛隊も交通渋滞に巻き込まれた末に、ようやく救助活動を行うに至った。だが、約1万人の人員に対して震災被害は広範囲に及んだために十分な救出活動を行うことが出来ず、3日後に本格的な災害派遣へと切り替えた。一方、村山首相はなぜ自衛隊派遣が遅れたのかを問われ、「何分にも初めてのことなので」と答弁。内閣支持率の急落に繋がった。村山内閣の危機管理の甘さは国民から強い批判を浴びた。もっとも、当時の閣内は自民・社会・さきがけの連立であり、自由民主党出身閣僚が防衛庁長官、国土庁長官といった防災担当省庁をはじめとする全閣僚の3分の2を占め、やはり「官邸をはじめとする政府、国の機関はもとより、地元の行政機関、防災関連機関にとってもテレビ・ラジオが最大の情報源だった。」という日本の危機管理体制の不備の一言に尽きるだろう。
関東大震災の際の帝都復興院に相当する組織として、2000年までの間総理府に阪神・淡路復興対策本部が置かれた。復興に当たっては、1976年(昭和51年)10月29日に山形県酒田市で発生した「酒田大火」の復興事例が、短期間での都市復興の事例として参考にされた。具体的には、単なる災害前の街への復旧ではなく、道路幅の拡幅など大掛かりに区画変更を行い、緑地を多く取って緩衝地帯を設定すること、その実施に当たっては、単なる上意下達ではなく、国や自治体はアウトラインのみを地元に提示し、細部については地域住民の声を聞いて合意を形成をしながら、街全体を短期間のうちに、一気に防災型の都市に変えるというものであった。
自治体には、震災での建物の崩壊による圧死などの直接の死亡原因だけではなく、被災者が避難したあとの持病の悪化や停電による医療機器の停止による死亡などといった間接的な原因での死亡も関連死(認定死)として認定をするか審査する委員会が置かれた。
鉄道業界では、かつて輸送シェアのほとんどを獲得していた阪急電鉄・阪神電気鉄道・山陽電気鉄道など、私鉄が震災による壊滅的被害を受けた。JR西日本も同様の被害を受けたが、資本力の違いと、旧国鉄の強固なJRグループの結束力で全国から応援を呼んだことから急速な復旧を遂げ、次々に運行を再開した。(複々線であったJR神戸線は地震発生から約2ヶ月半後の1995年4月1日に、橋脚の倒壊した山陽新幹線は同年4月8日にそれぞれ不通区間を解消した。)私鉄では阪急電鉄が地震発生から約5ヶ月後の同年6月12日に不通区間を解消したのが最初である。JRと私鉄間で連携して行われた代替輸送からJRははずれたこともあり、その為、利用者の流れはJRへシフトした。
この震災は報道に大きく取り上げられ、地震発生後約3日間テレビ・ラジオはほぼ全てのチャンネルが24時間震災関連の特別番組となり、コマーシャルもほとんど放送されなかった。近畿広域圏では、地震発生から数日は完全にCM枠を抜き、その時間にライフライン情報を放送した。特に独立UHF放送局であるサンテレビは1月17日から1月22日まで106時間28分CM抜きで、また独立ラジオ局であるAM KOBE(現在はラジオ関西)は1月17日から1月20日まで69時間CM抜きで震災放送を行った。また、NHK教育テレビ、FMラジオ放送では数日間に渡り(特に関西向けには136時間の連続放送を含む)被災地域の視聴者に向けた安否確認情報放送が初めて適用された。近畿広域圏では、約1週間後から一部通常番組を流し始めたが、お笑いなどの娯楽番組は差し控えられた。また、地震関連情報は全国放送から近畿広域圏のみに次第に絞られ、このことが物議を醸した。特に約2ヶ月後の地下鉄サリン事件が発生してからはこの傾向は顕著となった。
神戸市全体としての人口は、2004年11月には震災前の人口に戻ったが、中央区より西側の兵庫区、長田区、須磨区、垂水区では、少子高齢化の影響もあり人口が震災前の水準に戻らず減少に転じる区も出て、特に長田区では深刻な状況となっている。一方で、同市中央区、灘区、東灘区では、利便性の高さから、工場跡地などで再開発により分譲マンションの建設ラッシュが起こっており、西宮市にかけての地域で小学校の供給が追いつかなくなってきている。実際に、一部の学校ではプレハブの仮設校舎で対処しているところも出てきている。
メディア等における問題
一方、メディア他で略称として「阪神大震災」と報じる事に疑問を持つ被災者もいる。大都市・大工業地帯・観光都市の一つである神戸・阪神地区だけが壊滅的な被害を受けた様に表現され、同様に甚大な被害を被った淡路島北部や明石市などが考慮されていないからである。そのため「阪神・淡路大震災」と呼ばれるようになってはいるが、明石市はなおこの表現でも含まれないため同市の広報資料などでは「兵庫県南部地震」を震災の呼称として代用している。
震災後、数年経過した時、インターネット上にて「阪神大震災には笑った!」という題名で、社会的に是認することができない震災被災者を極めて不謹慎な表現にて侮辱した、「むぎ茶」というハンドルネームを持つ人物といわれているが詳細ははっきりとしない者による書き込みのコピーが出回り、それを見た者に大きな衝撃を与え、また憤慨の的となった。
地震直後に現地で被災者支援のボランティア活動に参加した人の数は一日平均2万人超、3ヶ月間で延べ117万人とも言われ、被災地でのボランティア活動(専門ボランティア・情報ボランティアを含む)の重要度に対する一般の認識も飛躍的に高まった。そのため、この年は日本における「ボランティア元年」とも言われる。後に、内閣は1月17日を「防災とボランティアの日」と定めた。
命名
1月17日の災害発生時、メディアは「関東大震災」にちなんで「関西大震災」と呼んでいた所も有ったが、毎日新聞がはじめて「阪神大震災」の名称を使ったところ、次第に「阪神大震災」が一般的な名称として呼ばれる様になった。 気象庁は地震そのものを「平成7年(1995年)兵庫県南部地震(The South Hyogo prefecture Earthquake in 1995)」と命名。 その後、政府が、今回の災害の規模が大きい事に加えて、今後の復旧に統一的な名称が必要で有るという観点や、淡路島地区の被害も大きかったことにより、災害名を「阪神・淡路大震災」と呼称する事が2月14日に閣議口頭了解され、「阪神・淡路大震災復興の基本方針及び組織に関する法律」が制定された。この時に「阪神・淡路大震災」と呼ばれるようになる。なお明石市や淡路島の諸自治体は、被災地が阪神地域に限られる印象を与えるとして同呼称を用いていない。
防災
震災当時の状態が保存されている神戸港震災メモリアルパーク。浜手バイパスの奥に見える阪神高速神戸線も倒壊した。2004年2月撮影この大震災が、火災を含めた大惨事となった大きな理由は、被災した地域が国内の他の地域に比べて地震の発生が少なかったことがあげられる。地震の専門家の一部は、規模の小さい地震すら起こらないことでエネルギーの蓄積が起こり、万が一地震が発生した場合は規模が大きくなるものとして危険性を指摘していたが、「近畿地方は地震が少ない。仮に起こってもそんなに大きな地震は過去に起こったことがない。」といった“実体験”による認識(ただし、歴史文献を紐解けば、実際には同地方は度々巨大地震に襲われている。地震の年表参照)から、「近畿地方では大きな地震は起こらない。」とする誤解が広まっており、当時指摘そのものを信用する人間がいなかったからだとされている。また、これまで大地震は、太平洋プレートやフィリピン海プレートが日本海溝で日本の下に滑り込みそのプレートの跳ね返りにより発生するとされ、活断層のずれによる大地震の発生はあまり注目されていなかった。実際、これらのプレートの境界の近くに位置する東海地方は、大地震(東海地震・東南海地震)の発生する可能性が最も高い地域として、防災訓練、建造物の補強や砂防など徹底した対策が取られてきた。一方、近畿地方では、前述のような理由から、無警戒に近かったということは言えるであろう。
また、例えば北海道各地や東北、北陸などの雪国であれば、地震の多発地帯以外でも、「雪」という重量物が屋根の上に積み重なる前提で家屋が建てられるために、結果的に「地震」など揺れにも強い構造となることも考えられる。とはいえ、新潟県中越地震において豪雪地域の建物が少なからず倒壊・損壊したことで、耐雪構造と耐震構造とを分けて考える必要性が指摘されるようになっている。
全てではないが、その後のビルディングも含めた建築物を建造や補修する際は、そういった阪神・淡路地方の惨劇を教訓とした上で、最低限の耐震性を考慮した構造に変わっていった。また、前述の「高架になっている高速道路や一般道路、鉄道などの橋脚」の構造上の脆弱さが指摘されて、順次、行政主導のもと補強工事が施工されていった。
この地震の原因とされる活断層は全国に広く分布し、科学的に大地震を正確に予知することは現在も不可能であり、「活断層上の建造物の耐震性」「地盤の強弱」を前提とした補修、建造であっても、万一発生の際の被害予測は非常に難しい。また、「地震に起因する火災(特にもらい火)」などは、多くの火災保険では填補除外条項とされているケースが多く、採算性の問題も含め改善が進んでいない。一方、この震災を機会に地震保険への注目が集まるようになった。そういった諸問題も含め、この「大震災」は日本の災害対策上重要な位置を占め、地震の少ない地方であったとはいえ「地震国日本」がこういった人命、建造物問わず、甚大な被害を被ったこと自体が、世界中に衝撃を与えた。
以上の教訓を踏まえ、兵庫県は神戸市中央区に人と防災未来センターを建設した。なお、新潟県中越地震による新潟県への別館建設も検討中である。また、震災の記録を残すため、津名郡北淡町(現・淡路市)には兵庫県南部地震の震源となった野島断層を保存する北淡震災記念公園が、神戸市中央区のメリケンパークには崩壊したメリケン波止場を保存する神戸港震災メモリアルパークが整備された。
震災の影響
毎年1月17日、神戸市役所横の東遊園地では雪地蔵にロウソクを供え手を合わせる姿がある。被災地域の住民の間では、震災から10年を経てなお、単に「地震」と言えば阪神・淡路大震災のことを指す。
この災害によって消防・レスキューの得た経験は、緊急消防援助隊や広域緊急援助隊の制度発足と整備につながり、後の新潟県中越地震(2004年)やJR福知山線脱線事故(2005年)でも大きく貢献することとなった。また、1995年3月の地下鉄サリン事件と合わせ、自衛隊の災害援助の意味での機能が注目され、国民の自衛隊に対する好感が、震災以前と比べて大きくなった。一方で、自衛隊の本務でない災害援助においては装備や組織の問題で十全に機能し得ないとする意見も多い。上記の大渋滞によって消防・レスキューの到着が遅れ、救助活動が進まず、村山富市総理大臣(日本社会党)から出動要請を受けた自衛隊も交通渋滞に巻き込まれた末に、ようやく救助活動を行うに至った。だが、約1万人の人員に対して震災被害は広範囲に及んだために十分な救出活動を行うことが出来ず、3日後に本格的な災害派遣へと切り替えた。一方、村山首相はなぜ自衛隊派遣が遅れたのかを問われ、「何分にも初めてのことなので」と答弁。内閣支持率の急落に繋がった。村山内閣の危機管理の甘さは国民から強い批判を浴びた。もっとも、当時の閣内は自民・社会・さきがけの連立であり、自由民主党出身閣僚が防衛庁長官、国土庁長官といった防災担当省庁をはじめとする全閣僚の3分の2を占め、やはり「官邸をはじめとする政府、国の機関はもとより、地元の行政機関、防災関連機関にとってもテレビ・ラジオが最大の情報源だった。」という日本の危機管理体制の不備の一言に尽きるだろう。
関東大震災の際の帝都復興院に相当する組織として、2000年までの間総理府に阪神・淡路復興対策本部が置かれた。復興に当たっては、1976年(昭和51年)10月29日に山形県酒田市で発生した「酒田大火」の復興事例が、短期間での都市復興の事例として参考にされた。具体的には、単なる災害前の街への復旧ではなく、道路幅の拡幅など大掛かりに区画変更を行い、緑地を多く取って緩衝地帯を設定すること、その実施に当たっては、単なる上意下達ではなく、国や自治体はアウトラインのみを地元に提示し、細部については地域住民の声を聞いて合意を形成をしながら、街全体を短期間のうちに、一気に防災型の都市に変えるというものであった。
自治体には、震災での建物の崩壊による圧死などの直接の死亡原因だけではなく、被災者が避難したあとの持病の悪化や停電による医療機器の停止による死亡などといった間接的な原因での死亡も関連死(認定死)として認定をするか審査する委員会が置かれた。
鉄道業界では、かつて輸送シェアのほとんどを獲得していた阪急電鉄・阪神電気鉄道・山陽電気鉄道など、私鉄が震災による壊滅的被害を受けた。JR西日本も同様の被害を受けたが、資本力の違いと、旧国鉄の強固なJRグループの結束力で全国から応援を呼んだことから急速な復旧を遂げ、次々に運行を再開した。(複々線であったJR神戸線は地震発生から約2ヶ月半後の1995年4月1日に、橋脚の倒壊した山陽新幹線は同年4月8日にそれぞれ不通区間を解消した。)私鉄では阪急電鉄が地震発生から約5ヶ月後の同年6月12日に不通区間を解消したのが最初である。JRと私鉄間で連携して行われた代替輸送からJRははずれたこともあり、その為、利用者の流れはJRへシフトした。
この震災は報道に大きく取り上げられ、地震発生後約3日間テレビ・ラジオはほぼ全てのチャンネルが24時間震災関連の特別番組となり、コマーシャルもほとんど放送されなかった。近畿広域圏では、地震発生から数日は完全にCM枠を抜き、その時間にライフライン情報を放送した。特に独立UHF放送局であるサンテレビは1月17日から1月22日まで106時間28分CM抜きで、また独立ラジオ局であるAM KOBE(現在はラジオ関西)は1月17日から1月20日まで69時間CM抜きで震災放送を行った。また、NHK教育テレビ、FMラジオ放送では数日間に渡り(特に関西向けには136時間の連続放送を含む)被災地域の視聴者に向けた安否確認情報放送が初めて適用された。近畿広域圏では、約1週間後から一部通常番組を流し始めたが、お笑いなどの娯楽番組は差し控えられた。また、地震関連情報は全国放送から近畿広域圏のみに次第に絞られ、このことが物議を醸した。特に約2ヶ月後の地下鉄サリン事件が発生してからはこの傾向は顕著となった。
神戸市全体としての人口は、2004年11月には震災前の人口に戻ったが、中央区より西側の兵庫区、長田区、須磨区、垂水区では、少子高齢化の影響もあり人口が震災前の水準に戻らず減少に転じる区も出て、特に長田区では深刻な状況となっている。一方で、同市中央区、灘区、東灘区では、利便性の高さから、工場跡地などで再開発により分譲マンションの建設ラッシュが起こっており、西宮市にかけての地域で小学校の供給が追いつかなくなってきている。実際に、一部の学校ではプレハブの仮設校舎で対処しているところも出てきている。
メディア等における問題
一方、メディア他で略称として「阪神大震災」と報じる事に疑問を持つ被災者もいる。大都市・大工業地帯・観光都市の一つである神戸・阪神地区だけが壊滅的な被害を受けた様に表現され、同様に甚大な被害を被った淡路島北部や明石市などが考慮されていないからである。そのため「阪神・淡路大震災」と呼ばれるようになってはいるが、明石市はなおこの表現でも含まれないため同市の広報資料などでは「兵庫県南部地震」を震災の呼称として代用している。
震災後、数年経過した時、インターネット上にて「阪神大震災には笑った!」という題名で、社会的に是認することができない震災被災者を極めて不謹慎な表現にて侮辱した、「むぎ茶」というハンドルネームを持つ人物といわれているが詳細ははっきりとしない者による書き込みのコピーが出回り、それを見た者に大きな衝撃を与え、また憤慨の的となった。
